モクジ

● 歌うウグイス  ●

「君の声は本当に鶯が歌っているようだね」
 ジルが感想を漏らすと女はにこりと笑ってみせる。
 美しい娘だった。少し癖のある長い髪は鶯色をしていた。すみれ色の瞳はまるで輝く宝石のように美しい。彼女を見た人間は恐らくその美しさに暫く目を奪われるだろう。微笑みかけられれば虜になるやもしれない。
 それ以上に彼女の歌声は蠱惑的だった。
 澄んで高くたゆたうような柔らかい歌声は美しく、宮廷で聞けば最上の歌姫のように、戦場で聞いたならば死に導く美しい死神のようにさえ思えただろう。
「船乗りに言わせればさしずめローレライというところか」
「私は船を沈めたりはしません」
 娘は抗議するように言って頬を膨らませた。
 そうした表情は先刻とはうってかわって少女のようになる。その表情がジルは好きだった。
 ほんの少し微笑んでみせると、彼女もすぐに相好を崩した。
「寝てしまいましたね」
 彼女の視線はジルに抱かれるように眠っている少女に注がれている。
「君の歌声は心地いいのだろうね。フィーナも好いているようだよ」
「あら嬉しい。……でも、少し憎らしい気もします。あなたの膝を占領するなんて」
 そう言って少女の頬を突いた娘の表情は優しい。
 本気で憎らしいと思っている訳ではない。少女は愛おしい存在だった。ジルや自分の「子供達」と同じく、この少女は彼女にとってかけがえのない存在なのだ。ただこのところ少女に掛かりきりになっていた彼に少し拗ねて見せただけ。
 それを理解しているジルはちらりと笑ってみせた。
「君には私の背があるよ」
「ふふ、守らせて下さいますか?」
「君が望むのならね」
 彼女は微笑んでジルの背中に寄りかかるように耳を当てた。
 ジルのことを愛おしく思っている。
 この世界の誰よりも。
 それは人の言う「恋」とは違う種類のもの。愛と呼ぶ方がふさわしい気がするが、そんな半端な感情ではない。そんな易い感情ではない。彼女にとってジルは存在する理由なのだ。
 ジルの鼓動の音を聞きながら娘は小さく言った。
「……お出かけになるのですね?」
「そうだね、そろそろ行くつもりだよ」
「この子はどうします?」
「フィーもそろそろ自分の力で歩めるだろう」
 暗にここに置いていくと言っている。
 ジルの進む道は平坦なものではない。少女を守りながら進むには少し険しい道のりもある。無論少女の力は侮ることは出来ないだろう。自分の身を守れるぐらいの術は教えてきたし、助けられることもあるだろう。それでも危険なことには代わりがない。何より自分の側にいることで余計に危ない目に遭わせてしまうのだろう。
 それでも自分の旅に連れて行くことを考えなかった訳ではない。
 多くいるシウの門下生の中でも才覚があり、そして愛おしい存在である彼女を。
「この子は付いてきてしまうでしょうね」
「それがこの子の選んだ道ならば仕方ないだろう。ただね、この子には自分で道を見つけて欲しいと思うている。間違った道を歩もうとしているなら誰かが諫めねばならぬが、進む道は自分でゆっくり決めればいい」
 撫でると少女はくすぐったそうに身じろぎをした。
 正直言えば羨ましいのかも知れない。ジルは生まれる前から自分の星の運命に縛られ、人とは違う時間を生きていかなければならなかった。それがあの星にとって正しいことであるのは知っている。窮屈に思ったことはない。
 ただ、もし自分で選べたならと考えると、本当はやりたいことがあったのでは無いかと思ってしまう。
 少女には自分が選べなかった道を自分で選んでいって欲しい。
 それがささやかな望み。
 極端な話をしてしまえばジルは少女が望んで選んだことなら、若くして命を落とす結果になっても構わないと思っている。自分の心や運命というものに捕らえられ身動きが取れなくなっているよりも、自由に生きて欲しいと願っていた。
 無論、自分の目の前では死なせたくないと思っている。だから出来うる限り少女を守って行こうと考えていた。
「デュナンには伝えてある。シウの者がこの子を守るだろう、心配はいらぬよ」
「あら、むしろ私は貴方を心配しているんですよ、ジル」
「君の中では私はそんなに弱いのかね」
「いいえ、貴方は‘不死身’なのでしょう? 弱い訳がありませんわ」
「まったく皆私を人ではないように言う。私とて死なない訳ではないのだよ」
 肩を竦めるジルに彼女はくすりと笑いを漏らす。
「こちらの概念では貴方は人ではありません。私が心配しているのは、貴方が寂しがりと言うことです」
「それは親友にも言われたよ」
「そのくせ、貴方は自分がいつか帰らなければならないことを知っているから、誰も求めない」
「………」
「たまには私を欲しがって下さい。私の方ばかり貴方が好きで、時々とても寂しく思うんですよ」
 娘は後ろから彼の頭を抱きかかえるようにしながら髪にキスをした。
 ジルが視線をあげると菫色の瞳と交わった。
 優しく互いを慈しみあうような感情が二人の間を流れていた。
 彼らの関係を知らない者が見れば恋人同士の蜜月のようにさえ見えただろう。ジルは娘の癖のある髪を一房取って軽く口づけをする。
「いつまで私がこちらにいられるか分からないよ」
 こちらの世界に留まっているわけにはいかない。
 時の流れが完全に異なっている世界とはいえ、あちらの世界のことが心配だ。もしも道が開けたのならばすぐにでもあちらの世界に戻るつもりでいる。
 多分、こちらに置いていくものが多すぎて未練を感じる。
 それでもジルには果たすべき役目がある。こちらの世界に辿り着いたのも、恐らくその役目を果たす為に必要だったのだ。こちらの世界に来て得た知識は、恐らくあちらでも役立てることが出来る。だから「親友」はこの世界への道を選んだ。
 人の形を取りながら人間ではない彼女はそれを十分理解していた。
 何で今更そんなことを言うのだろうという風に彼女は笑う。
「出会った時から承知しています」
「歌って欲しいと頼めば歌ってくれるかね?」
「貴方が望むのであればいつでも」
「船を沈めてくれと頼んだらどうする?」
「なら、私はローレライになります」
「悪行でも従うと?」
「貴方がそう言うときは必ず理由があると信じています」
 菫色の目は完全にジルを信頼していた。
 かなわない、とため息をつくジルはどこか嬉しそうにさえ見えた。
「……一緒に来てくれるかね、ウグイス」
 彼女は微笑んだ。
「はい、喜んで」
 揺らぐように娘の身体が透き通り、まるで大気に解けるように消える。
 やがて一片の羽のような光がジルの手のひらの中に落ちた。
 その光はジルの手に溶けるように消えた。
モクジ
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